――これは、随分と前の話だ。







*     *     *







  「…少し冷えてきたね、
  「はい…そうですね」


  視線を庭先にやったまま話しかけると、は困ったような笑みを含んだ声で、そう言った。
  


  「…薫さま。羽織を持ってまいりましょうか?」
  「ううん、大丈夫。 要らないよ」


  風が吹く。秋風ってやつだろうか。 柔らかくて、少し冷たい。
  暫しの沈黙を経て、が ゆっくりと言葉を紡いだ。


  「…南雲家を、お継ぎになるのですか…?」
  「…ああ、そうだよ。 ま、妹を捜すのは、南雲家を継いでからでもできるし」


  予想していたとおりの質問に乾いた笑いをこぼしながら、縁側に腰掛け足をぶらぶらとさせつつ答える。


  「形式上、俺は南雲家の養子で長男だからね。 土佐藩のお偉方も、俺が南雲家を継ぐこと、さも当たり前みたいに喋ってた」 .
  「…そう、ですか」


  は俯き、か細い声をこぼした。
  その拍子に、赤みがかった長くつややかな黒髪が一筋、さらりと彼女の頬へとかかる。


  「……


  名を呼ぶと、はその華奢な肩を、ぴくりと聳やかせた。
  そっと腕を伸ばし、親指で彼女の唇をなぞる。 しっとりと色づいた唇、肌理濃やかな透き通るように白い肌。


  「ねえ…こっち見て」
  「…はい…」


  耳許で囁けば、頬を淡く染めながら、それでも真っ直ぐに俺を見上げてくる。

  ――従順なのだ。
  南雲へ仕える鬼の家、の一人娘であるは、幼い頃から、良い意味でも悪い意味でも、常に従順。

  きっと今、噛みつくように口付けたところで、驚きこそしても、抵抗はしないのだろう。
  けれどそれができない俺は、いつまで経っても臆病なままだ。


  「…おまえは、どうするの?」


  傷つけられて抉られて、泣いて苦しんで、だけど堪えて、堪え抜いて。
  もう彼女は自我なんてものを失くしてしまったんじゃないかと、不安になる。


  「え…?」
  「もう、南雲家に仕える必要もないんだよ…?」


  仕える奴らは、既にいないのだ。
  この南雲の邸だって、もう売る手筈は済んでいる。あとは俺が、土佐藩邸へ移り住むばかりなのだから。


  「…ねえ、俺と一緒にいこう? 俺ならの全部、受け止めて……」


  ――言いかけて、思わずとまる。

  の大きな瞳から、大きな涙珠が溢れ落ちた。 ぽろぽろ、ぽろぽろ、大粒の真珠みたいに。
  それらは止まることなく次から次へと溢れ出て、彼女の頬を伝っては、俺の着流しをより濃い紺色に染めあげていく。


  「…っ、な、んで…」
  「…?」


  の声がよく聞こえなくて、彼女の口許に耳を寄せて、名を呼んだ。
  幾度となく呼んだ名だ。 幼い頃から、唯一 縋れる存在だった、彼女の名前。あたたくて優しい響き。それなのに。


  「何でそういうこと、言うんですか……!」


  ――裂けんばかりの痛々しい声に、もう何も言えなくなる。


  「お願いだから、そんなこと…言わないでください…っ」


  見られたくないのだろう。 は両手で必死に顔を隠そうとする。
  細く折れそうな手首を掴んで それを防いだところで、何が出来るわけでもなく、戸惑うだけだ。

  きっと俺たちは二人とも、怖くてしかたがないんだろう。 もう二度と誰かを、相手を傷つけたくないんだろう。
  だから脅えて、脅えて、逃げてしまうんだ。


  「…」


  こぼれ出たのは、我知らず震えて、頼りない声だった。







*     *     *







  ――これは、随分と前の話だ。

  そうしては俺の前から、何も言わずに姿を消した。







*     *     *







  今日は、随分と長い間、穏やかで冷たい雨が降った。
  せっかく綺麗な朱に染まっていた葉たちが濡れて、すっかり元気をなくしている。

  ああ、に見せたなら、少し悄気て、それでも喜ぶんだろうな。 は紅葉が好きだから。
  眉尻を下げて、「少し残念ですけど…でも、綺麗ですね」って、柔らかく笑うんだ。


  今は誰もいない左斜め後ろが、どうしようもなく寂しくて


  心の奥が、ひどく痛んだ。